あどけない自慰のような
飼い猫に彼と同じ名前をつけたのはちょっとした出来心だった。
学校の裏庭で見つけたその猫は可哀想なことに右目が潰れてしまってはいたが
毛並みは黒く艶やかで、おいでと呼べばすぐにこちらに寄ってきた。
廊下などですれ違った折、こちらから「おはよう」と声をかけても
ぼそぼそとしか返事をしない彼とは大違いである。
そうして今その猫は自分の膝の上に乗り、低く喉を鳴らしている。
その様は可愛らしいことこの上ないのだが、真田は少し苦笑いを浮かべた。
明日までに、授業で行った小テストの採点をしなければならないのだが
これでは身動きが取れないではないか。
今自分と猫のいるソファからテストの束が積んであるデスクまでがやけに遠くに感じ
真田は猫の額を撫でながら小さく息を吐いた。ソファの古い皮が、きし、と音を立てた。
この猫の名前の主である伊達政宗は、あらゆる意味で気がかりな生徒だった。
授業に出ない、出ても寝ている。いわゆる不良グループの長である長曾我部と連んでいて
夜な夜な町を徘徊しているなど、いい噂をとんと聞かなかったが
クラス担任でない真田に取っては、これがあの、というくらいしか思わなかった。
それに、寝てばかりではあったが、伊達は毎回自分の授業に顔も出していたし。
曲がりなりにも教師の身分であるので、最初のうちは彼に注意もしてみたのだが
伊達の居眠りは一向に直る気配を見せず、そのうち真田の方が匙を投げてしまった。
窓際の後ろから3列目、午後の柔らかい光を浴びて気持ちよさそうに机に突っ伏している彼を見ていたら
なぜかそれ以上追求するのもはばかられる気持ちするから不思議だ。
そうしてしばらく経った頃、そのような真田の態度にむしろ彼の方が興味を持ったらしい。
本当にごくまれにだが、授業中に起きている彼と目があったりすると
唇だけ動かして、「せんせい、がんばって」などと伝えて来たりするのだった。
さも気だるそうに、頬杖をつきながらではあったが。
真田は伊達のことを思い出す時、必ずと言っていい程まず彼の目が脳裏に浮かぶ。
白い眼帯で右の目を常に覆い、もう片方の目は剣呑とも
無気力とも取れるような、そのような目をしている。
今まで接してきた生徒の中で、伊達のような雰囲気を持つ者ははいなかった。
だからなのだろうか、妙に気になる。
窓の外はだんだんと夜の気配が近づいてきていた。
夕日の赤と、夜の黒とがとろりと混じり合っていく。ああ、眠たいなあ。
真田はソファの上に背をぐ、と凭れさせた。猫が、口を大きく開けて欠伸をしている。
そのまま、目をつむる。眠気を伴う倦怠感が、足もとから全身へじわりじわりと絡みついてくる。
一度だけ、彼が笑ったところを見たことがあった。
休み時間、廊下の向こうから彼が歩いてきたのを見つけて挨拶をしようと思ったところ
それより前に彼がこちらを見て、軽く手を挙げたのだ。口元に、緩く笑みを浮かべて。
あまりのことに一瞬惚けてしまったのだが、急ぎ挨拶を返そうとしたところで彼は「元親」と叫んだ。
は、と後ろ振り返れば、彼の友人が「よう」と片方の腕を上げ、呼びかけに応えている。
あの時、自分は少なからず落胆していたのだ。あの目がこちらに向けられなかったことに。
そうしてその場をそそくさと離れた。ひどく気分が悪かった。
猫の声がして、思考がふわりと浮上する。
物欲しそうにこちらを見上げてきたので、耳のあたりを掻いてやると
彼と同じ深い色あいの隻眼が細められる。
そのまま猫の前足の脇に手を差し込んで抱き上げた。突然のことに、猫がみゃあみゃあ抗議をしてくる。
真田は猫の頬のあたりに自分のそれをすり付けて、思った。
彼は、他にどのような顔を持っているのだろうか。
一度だけ見た、夢とも幻とも取れるような彼の笑みがちらちらと脳裏に浮かんでは、消える。
猫は諦めたのか、今では大人しく真田のされるがままになっている。
「まさむねどの。」 額に口づける。
「まさむねどの。」 頬に。
「まさむねどの。」 右目の上に。
「まさむねどの。」
「まさむねどの。」
ふいに、下腹部がどくどく脈を打ち、自ずと熱を持ち始めた。
これは、まずい。非常に。
急に狼狽えだした真田を猫がじいと見つめて来る。
お願いだから、今はその隻眼(め)で見ないで欲しい。
※タイトル※
はだし様(http://nobara.chu.jp/sss/index.html)