忘れるにはまだ足りない
男は、雨の日の午後にやって来る。
前触れもなにもない。いつの間にやら門の前に立っていて
それにこちらが気づくとゆるく口元に笑みを引く。
そうして、踵を返した自分の後ろに連れだって、一緒に屋敷に入ってくる。
許しを出した訳ではない。けれどもなぜか、追い返すことも出来ぬ。
気づけば二人、並んで縁側に腰を落ちつかせている。
文を、と男はのたまう。差しだされた薄黄色の包みに手を伸ばす。指が震えた。
源二郎から、という言葉はほとんど耳に入らなかった。大きく息をついた。
がらにもなく緊張しているのだ。結局、この男を拒めないのは
男がもたらすこの手の中のもののためである。
まぶたの裏に、赤い赤い火の粉がちらついた。軌跡を描いて、紅蓮の鬼の形をつくる。
ざあざあと雨の音がする。空が暗い。低く、灰色に覆われている。
風が全くないので息苦しかった。もう一度、肺いっぱいに空気を吸い込む。
彼の、お世辞にも美しいとは言えない字で紙面が埋め尽くされている。
それをからかってしまったことで、以前、彼が臍を曲げてしまったことがあった。
彼の、何度めかの奥州滞在の折。その後も互いに引くことなく、口数少ないまま別れてしまった。
それももう、遠い昔のことである。今彼は、甲斐の地にはおらぬ。
自分は変わりない。周囲の者も良くしてくれ、快適である。
今では日々の暮らしを楽しむ余裕も出てきた。誠に有難いことである。
九度山は四季も美しい。いずれ兄上もお越し下され。
そのようなことがつらつらと書きつづられている。
ちりちりと胸の辺りが焦げる思いがする。
目前の男ががもたらす文には、自分を案じる言葉ひとつ見当たらなかった。
今まで、一度も。それが妙に勘に触った。
文を膝の上に置いた。知らず大きな息がもれる。
息災そうで、何よりだ。男に、文を返した。読後、毎度お決まりの台詞である。
それ以外に、言いようがないのだから仕方ない。
すると男はふふ、と笑った。こちらが差し出した文に手を伸ばす。
と思いきや、それを通り越してこちらの腕を掴んできた。
「何のつもりだ。」
「心なしか、伊達殿が淋しそうに見えたので。」
「思い違いだ、離せ。」
身分を考えればこちらの方が当然上である。
この無礼をもって、ここで打ち首を命じるかと物騒な思想が頭の隅でちらつく。
男の目を見据え、ぎり、と睨みつける。一方で、男の目は細められた。笑っている。
彼と同じように、柔く目のはじに皺をつくる笑い方である。
「政宗殿。」
「…その名で俺を呼んでいいのはアンタじゃない。今ここで斬られたいか?」
「本日はこれにて失礼致します。度重なる無礼をお許しください。」
すうっと心が冷えてゆくのを感じた。乱暴に、男の手を振り払う。
立ち上がり、縁側からつづく奥の部屋へと歩みを進める。苛立っている。
時が経てば経つほど、男に彼の記憶を塗り替えられてしまう心地がした。
彼の目を思い出そうとすれば、自ずと男の目からそれを形作ろうとする。忌々しい。
「二度と来るな。」
一度も後ろを振り返らず、言った。
彼の声が、なぜだか無性に懐かしかった。
※タイトル※
はだし様(http://nobara.chu.jp/sss/index.html)