その腕にあまえる
視界の端に、何やら黒いものを捕らえた気がした。
猫でもホームに入りこんだのかと思ってよくよく近づいて見てみると
それはスーツ姿の男で、今が金曜の夜だということから想像するに、恐らく飲み会帰りなのだろう。
鉄柱に片手をついたまま、下を向いて座り込んでしまっている。時折、うう、と低く呻いた。
4月も半ばに入り、日中は暖かい陽が差しこむが、夜はまだ冷える。
風邪を引かれても困るし、このままにしておく訳にもいかず、彼の隣にしゃがみこんだ。
肩に手をかけ、相手の顔を覗き見る。大丈夫ですか。
漂う酒のきつい匂いにむせそうになったが、我慢した。隣の彼は、息も荒い。
襟足まで伸びた黒髪が、頬にかかっていて少し邪魔だと思う。
大丈夫、です。ようやく返って来た声は途切れ途切れな上、最後の方はほとんど耳に届かなかった。
こちらを向いて話すこともままならいらしく、息の音が、冷たいコンクリートの地面に吸い込まれてゆく。
白い喉仏がそれに合わせて上下するのを何度か見送った後、動いた。
少し、失礼します。言うが早いか彼の脇に自分の腕を差し入れて、ゆっくり立ち上がる。
二人分の負荷が腰のあたりと両足に圧し掛かったが、そこは耐えた。
急に動いたことで男は、うわ、とか何とか声を出したがそれも一瞬で
今は口元を掌で押さえ、こみあげて来る何かを必死で耐えているようにみえた。
ホームを降り、改札を出てすぐのところにあるトイレに彼を運んだ。
個室の扉を開けた瞬間、倒れこむように便器を顔を埋めて、戻した。
もう限界だったのだろう。洋式の、便座の縁に両手をかけて、ごほごほと咳き込んでいる。
思わず背中をさすってやると、幾らかそれも和らいようだった。
はあ、とひとつ息をついて、ふと髪を耳にかける。そこで初めて、横顔を見た。
青白い肌。濡れたくちびる。目の縁に、うすく涙が溜まっている。
首の筋が急に粟立った。やはり今夜は冷えるらしい。
※タイトル※
はだし様(http://nobara.chu.jp/sss/index.html)