蒔かれた種について

ある程度までは容易く踏み込むことが出来るというのに
どうしてもそれ以上抜けられない一線がある。
いつも、軽薄そうな笑顔を浮かべるあの忍びの深淵は図りしれないが
その断片らしきものを実は見たことがあった。

それは、彼の主が怪我をして尚、戦場に戻らんとした時だったと思う。
止血もそこそこに、二槍を両手に陣を飛び出した主の前に
その忍びが音も無く立ちはだかったと思えば、問答無用で主の鳩尾あたりに拳を打ちこんだのだ。
主は恐らく、そこを退け、とか何とか言おうと口を開きかけていたのだが
その短い言葉すらも最後まで言わせなかった。
顔色一つ変えずにそれをやってのけた忍びは、力なく崩れ落ちた主をしかと受け止め
事の成り行きを見守っていた周囲の者共に、急ぎ主の手当てをするよう命じた。
その凛とした声に弾かれたように、陣一体が再び喧騒を取り戻す。
然程広くもない陣の中、自分に与えられた責務を果たさんと、さまざまな者が動き出した。

忍びは、腕の中に収まった主を事もなげに横抱きし
すでに陣の奥に歩みを進めんとしていたのだが、ほんの刹那、自分はそれを見た。
忍びが、主を見て微笑んだのだ。それはそれは、美しい笑顔で。
瞬きをした次の瞬間にはすでに元の、何も読み取れぬ表情に戻ってしまっていたのだが
確かに笑っていたように思う。なぜだか、ぞわりと、背中が粟立つ心地がした。
すぐさま脳裏に、妄執とかいう類の言葉が浮かんできて、ぶるぶると頭を振る。
あれはいけない。あの忍びは。
忍びの背中はどんどん遠くなっていく。
けれども、そこから一歩たりとも動くことは出来なかった。