彼が笑う、その理由
じゃり、と地面を蹴る音がしたので
重い体に鞭を打ち、顔だけ何とかそちらに向けた。
すると、白地に赤いラインの3本入った内履きの
つま先あたりが視界の端に入って来た。
けれど、そこまでだった。
視線を上にあげて、誰が来たかを確認する力なんて生憎残ってなどはいない。
どれくらいここにいたのだろうか。
というか、今は何時頃なのだろうか。
そんなことを、脈略なく、ゆるゆると考える。
頬の下にはざらざらと冷たい感触。
そう言えば、いつ自分はアスファルト上に横になったのだろうか。
校舎裏の、人目に付かないごみ捨て場前などで
昼寝をする趣味はなかったはずなのだが。
何やってんの、旦那。
声には、明らかに呆れの色が含まれていた。
お前には昼寝でもしているように見えるのか、佐助。
ふわりと一陣の風が吹き抜けた。きっと、彼の明るい色の髪を揺らしている。
いや全く、と彼は言ったきり、なぜかそのまま黙りこんでしまった。
少し話しただけで、切れた唇の端がじくじく痛む。
抱えて、保健室まで連れて行けとは言わないが
せめて肩を貸すなどしてここから連れ出して欲しかった。
いつの間にやら日は傾き、彼の長い影が顔のすぐ横に伸びて来ている。
彼が、どんな顔をしているのかはここからでは分からない。
相変わらず、つま先を相手に話をしている。
喧嘩を売られても、自分からは決して買わないと
彼に無理やり約束させられたのは2年ほど前のことだ。
思ったことをすぐ口に出してしまう性格が災いして
あちらこちらから目を付けられていた自分に
「我慢する」ということを教えたのが彼だった。
何か言いたいことがあっても、口にする前に深呼吸して。
そうすれば、余計なことは言わなくてすむはずだから。
彼のアドバイスを受け入れるまでにはかなりの根気が必要だったが
それに慣れて行くにつれ、喧嘩に巻き込まれることも無くなっていった。
喧嘩の度、あちらこちらに傷をこさえて来た自分に、彼が文句たらたら手当てをするという恒例行事も
真田は嫌いではなかったのだが、これもまた然りだった。
理由は聞かない方がいい?と彼は(恐らくこちらを見下ろしながら)言った。
正直どちらでも良かったが、体に全く力が入らたかったので、惰性でそのまま首肯した。
また、風が吹いた。そして、彼から伸びる黒い影がゆらりと動いた。
彼は了解と短く呟くと、すぐ側にしゃがみ込み、腕をこちらの脇の下に差し入れた。
そして、よいしょという掛け声と共に起き上がると、自然こちらも立ち上がる形になる。
思わず足元がふらつきかけたところを彼が踏ん張って支え
じゃあ行きますかと前を見据えて言った。
結局、彼はいつもこうなのだ。
心配しているのか、していないのか。
関心があるのか、無関心なのか。
優しいのか、そうでないのか。
けれど、たぶんきっと、自分は彼に甘えているんだろうと思う。
佐助、と彼の名を呼ぶと、はいはいなあにと返ってくる。
こちらは見ない。互いに、前を向いたままだ。
…このことは、伊達殿には言うな。出来るな?
それくらい、朝飯前だよ。
抑揚のない声色だった。
けれど呆れとか、そんなものも感じられなかったので
真田はほう、と安堵のため息をつく。
旦那も、と隣を歩く彼が呟いたのでほんの少しだけ顔を上げた。
人を守る喧嘩が出来るようになったんだね。
そこで初めて、目が合った。
彼は、見たこともないくらい穏やかな顔で、笑っていた。