雨音子
風の強く吹く午後だった。
庭先で稽古に励んでいた彼がぴたりと動きを止め
塀のはるか向こう側にある山間を見つめて一言、来る、と呟いた。
何がだ。雨でござる。まさか、今は晴れてるぞ。しかしじきに。雨の匂いが致しまする。
そう言って再び朱槍を振り回し始めた彼の背中を政宗はぼんやりと目で追った。
この言葉が本当ならば、もう何日かこちらに留まることになりそうだ。
夕方より激しく雨が降り出した。
低く澱んだ雲から降り注ぐ雨はまるで滝のように地面に降り注ぎ
あっという間に辺り一体を黒く濡らした。
ごうごうという雨音を聞きながら客間で夕食をとっていた政宗は
彼の言葉を信じて甲斐に留まった自分の判断に深く安堵していた。
あのまま出立していれば、間違いなく山中で立ち往生していたに違いない。
この降り方だと、下手をすれば命を落とす者も出ていたかもしれなかった。
天下統一の道半ばで大雨が原因であの世逝きなど死んでも死にきれないというものだ。
彼の嗅覚にはいやはや恐れ入る。
政宗は目の前で静かに食事をとる幸村を盗み見て、口元を緩めた。
部屋に戻り、甲斐滞在が長引くことを急ぎ書状にしたためた。
配下の忍びにそれを持たせ、こんな雨の中悪いなと、肩を叩いて送り出した。
忍びは小さく首肯し、闇の中に消えていった。
遅くとも明日の朝には奥州の右目に書状が渡るだろう。
一仕事終えたところでふと口寂しくなって煙管に火をつける。
滞在中ぜひにと勧められた客間に臭いが残るのも気が引けたため
少しばかり障子を開けておく。
ほんの気持ちでしかないかも分からなかったが、やらないよりかはましだ。
机に片肘をつき、煙の行方を何となしに追っていると廊下に人の気配がした。
誰だ、と聞いても返事はない。忍びが戻って来たのか、それとも。
雨で月明かりも皆無のため、客間の灯等の僅かな光が作る相手の薄い影だけが頼りだった。
政宗は床の間に飾ってあった刀を一振り音もなく掴み影に向かって一気に間合いを詰めた。
そのまま障子を勢いよく開き黒い影を板張りの廊下に叩きつける。
影の喉元には件の刀。相手によっては鞘を抜くことも考えたがあえてそれはしなかった。
この俺に夜這いをかけるとはいい度胸だな、真田幸村。
少々手荒だが、出迎え感謝致すぞ政宗殿。
そう言って幸村は政宗へ腕を伸ばし柔く頬に触れた。
この雨のお陰でもう一晩政宗殿を抱くことが出来る。
政宗の下で破顔した幸村に、刀を突き付けたまま政宗はそっと口づけた。